2006'03.27 (Mon) 23:14
その途中で撮った写真を一枚。

2年近く「生の」桜を見ていなかったが、その美しさにうっとり。勿論まだ満開状態でなく、所々蕾も見えるが、この段階が一番美しいと私は思う。子供連れのお母さん達が、桜の木の下で話しに花を咲かせている姿も微笑ましい。
夕方、小田急新宿からあさぎり号で実家のある静岡県御殿場市に帰郷。駅には仕事終わりの父が迎えに来てくれ、家に着くと母が焼肉の準備をして待ってていてくれる。テレビを見ていた祖母も加わり、正月以来の家族団らんの乾杯、夕食。私事だが、(私の受賞もさることながら)先頃の人事異動で栄転となった父と、それを支え続けた母や祖母を祝いたかったのだ。特に我が家は、自分が高校生の時に、父は静岡県賀茂郡松崎町、母と祖母は静岡県御殿場市、自分は静岡県清水市(現在は静岡市)とばらばらの生活を送っていたし、その後自分が東京の大学に行っている時の父の静岡市への単身赴任(若しくは通い)等、ちょっと大変な時期があった。更にその時期に実家の放火にも遭遇したり…(勿論その時は父も自分も御殿場に戻り、一週間休暇をとり、片付けや手続きに走り回ったし、周りの方々のご尽力やご支援でほぼ現状回復できた)。でも、その苦労も今日の夕食における祖母、父、母それぞれの笑顔を見るに、少しは報われたのかな、とも感じた。
放火事件があったんですね・・・それは精神的にも金銭的にも大変でしたね(><)
でも、それを乗り越えてきた家族って絆が深そうですね(*^^*)
うちは静岡までだったから良かったけど、金谷ですか…ご同情申し上げます。うちの父も今5時起きで富士宮(富岳館高)通いですが、沼津の庁舎行きになった事で幾分楽になるのでは、と思います。
放火の時に一番苦労を掛けたのはやはり母でした。上記の1週間で片付けとかは済んだのだけど、その後の諸手続き等で実際に動いたのは母だった。父は静岡、僕は東京で新星日響《魔笛》パパゲーノ役でのデビュー、芸大合唱がN響・ブリテン《春の交響曲》に参加する際のマネージャーと一杯一杯で何も助けて上げられなかった。お互いの持ち場でお互いの仕事に専念するしかなかった。でも、今となってはいい思い出です。
それにしても相当なご苦労を・・・
どんなに離れていてもやはり家族。
精神的な支えあいは大きかったと思いますよ。
それぞれが自分の事を精一杯こなすというのも
お互いの為となるのですね。
今の初鹿野さんの存り方が何よりの証拠だと思います。
今、このメッセージを御殿場の実家から書いています。先ほど(今日、年次休暇中の)母が、コーヒーを飲み終わって自分の部屋に戻る自分に、「お前が来てくれたお陰で家が明るくなったようだ」と言いました。まぁ、それは言い過ぎでしょうが、1年に一度か二度、こうして帰って僅かながらでも、自分の、苦楽を共にした家族と共に過ごせる日々の有難さを痛感せずにはおれません。
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